山寺の由緒

    大本山妙智山正覚院観音寺、通称を山寺。京都の醍醐寺を総本山とし真言宗醍醐派の大本山である。約1300年前の奈良時代、神亀年間(724年〜729年)に東大寺の大仏開眼よりも約30年も前に 聖武天皇の勅願により開創され、戦後まで塩飽諸島の総括寺院とされていた。 塩飽諸島の寺院の修行道場であり、多くの僧侶を輩出してきた。 明治維新前の神仏習合の時代の名残りがある寺院であり、荘厳ながらも山の中に聳え立つ鳥居は山寺が島内の小烏神社や八幡神社と共に在ったという歴史の移ろいを感じさせる。

   瀬戸内海の塩飽諸島の本島、その山中に築かれた寺は当時、聖武天皇の勅願で来山した行基菩薩が、備前の稗田山殿(現在の岡山県児島のあたり)から取り寄せた大木を用い一木三体の聖観音・毘沙門天・不動明王の仏像を刻まれた。その聖観音菩薩をご本尊として今日に至り三十三年毎に御開帳する秘仏である。その後、坂上田村麻呂が桓武天皇の勅願により七堂伽藍を建立。三度の火災を受けたものの現在の建物は、当村の年寄宮本伝太夫や豪商丸尾五佐衛門などの手により修繕された。その名残りに観音堂の床下には、織田家や豊臣家時代の水軍や豪商達が乗り回した千石船の舵をそのまま材木に使用したものが現存している。そうした塩飽大工と呼ばれた宮大工の遊び心は寺の随所に見られ、大玄関の門の彫りは現代の宮大工も唸らせるほど優美である。これらは当時の最先端の技術を動員して建てられたことを想像させるが、同時に瀬戸内が海上交通の要であったことを意味している。
 

   弘法大師空海は入唐の折、当寺にて修行され不動尊像を刻まれた場所は「願掛け水不動」として境内に位置している。弘法大師空海の孫弟子であり真言宗醍醐派の総本山醍醐寺を開創された理源大師聖宝は、天長9年2月15日の 832 年に当寺にてご誕生されている。 

   理源大師聖宝は天智天皇の後胤(こういん)であり、葛声王(かつなおう)と綾子姫の間に産まれ、幼名を恒陰王(つねかげおう)という。大師は小野流の始祖であり、修験道(当山派)の祖師でもある。政治的問題で九州へ流された葛声王を、船に乗って後を追った綾子姫はご懐妊されており、産気づいた際に讃岐国塩飽本島泊浦(現在の泊港あたり)に着き「いづことも身は白浪にゆられこしかたねの船を哀れとは見よ」と答えた。この奇縁によって当山の霊域に御誕生された。また浄土宗の祖師法然は流罪で本島に御着の時、霊光の後を追い当山に登り礼讃して「此世ながらの御浄土なり」と法悦歓喜された。仏恩報謝(ぶっとんほうしゃ)と自証化他(じぎょうけた)の功徳を積むべく、自ら筆を採って紺紙に金泥にて阿弥陀三尊来迎の影と六字の名号を謹書して大師の尊前に奉供された。